最初の黄金期を迎えようとしていた戦前の日本映画界に彗星のように現れ、天才の名をほしいままにしながら、28歳の若さでこの世を去った映画監督・山中貞雄(1909-1938)。
少年時代からの活動写真熱が高じて京都一商卒業と同時にマキノ等持院撮影所に入所した山中は、間もなく嵐寛壽郎プロダクション、東亜キネマで脚本の才能を開花させ「右門捕物帖」「なりひら小僧」など看板シリーズの作者として頭角を現しました。そして1932年、弱冠22歳で発表した監督デビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差』が山中の評価を決定的なものとします。
翌年には日活への移籍を果し、一躍伊藤大輔の代打に抜擢されて取り組んだ『薩摩飛脚 剣光愛慾篇』(1933年)、風刺映画の傑作といわれる野心作『盤嶽の一生』(1933年)、前進座との初顔合わせとなった『街の入墨者』(1935年)など、一本一本が大きな注目とともに迎えられますが、P.C.L.入社第1作となる1937年の『人情紙風船』発表直後に応招されて中国戦線に赴き、翌年病のため河南省開封で短い生涯を終えます。
山中が生前に監督した作品26本のうち、今日まとまったかたちで現存するのは『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の3本に過ぎませんが、天才監督の伝説はいまなお衰えず、ファンの心をとらえて離しません。山中貞雄の生誕百年を記念して開かれる本企画では、上記の3作品はもちろん、かろうじて断片だけが現存するタイトルや原作・脚本作品、戦後のリメイク作品、さらには山中が学生時代に描いたパラパラ漫画など25本(14プログラム)を集めてその偉業を偲びます。